LOGIN昔、午前二時の会議室で、朔弥さんが紙コップのコーヒーを私の手元に置いたことがある。
御門ホールディングスを再建させようと二人で必死だったころ。 私の一番好きなオートミルクラテだった。 「まだやるのか」 「数字が嘘をついているので」 彼は私の肩越しに資料を覗き込み、すぐ近くで小さく息をついた。 「そういうところだ。せめて休むときは休め」 低い声が近すぎて、あのころの私はそれだけで少し浮き足立った。 彼が私を気にかけてくれているのだと、本気で思った。 再建の底で、ああいうくだらないやりとりができる夜だけは、私たちはたぶん同じ側にいた。 なのに今は、朝の食卓で離婚を告げた相手として向かいに座っている。 「離婚しても、敵になるわけじゃない」 出勤前の玄関で、朔弥さんは低い声で言った。 「家族ではいられる」 喉の奥がひりついた。便利な言葉だと思う。切り捨てたあとで、関係だけきれいに残したがる人間はだいたい勝手だ。 会社に着くと、空気は昨日よりさらにぬるく悪かった。社内の空気は数字より厄介だ。決算書には載らないくせに、たいていのものを腐らせる。 十時の全社会議は、本社会議室と各拠点をつないだハイブリッド開催だった。 「おかしいな、社長が遅れるなんて珍しいね」 「何か用事で足止めされてるのかも」 会場自体は静まり返っているのに、空気だけが妙にざわついている。参加している人間も、画面越しの人間も、みんな手元のスマホばかり見ていた。 私も状況を確認しようとメッセージを開いた、そのときだった。朔弥さんは一条澄麗と一緒に入口に現れた。 〈美男美女で、お似合いすぎない?〉 〈しかも一緒に来たよ。もしかしてもう……〉 〈やめとけって、社長夫人に見られるかもしれないぞ〉 十時の全体会議で、一条澄麗は正式に紹介された。 淡いベージュのスーツ、やわらかい笑顔、きれいすぎて刺の見えない声。若くて、家柄がよくて、この場に立つことへ一ミリも迷いのない女だった。私が背筋で保っているものを、この人は最初から骨の形で持っている。 「一条澄麗です。用事で遅くなり申し訳ございません。まだまだ学ぶことばかりですので、皆さまどうぞご指導くださいませ」 感じがいい。だから厄介だ。露骨な悪意なら、まだ処理のしようがある。 紹介のあと、海外案件に関する役員向けの確認会議で、説明資料に致命的な抜けが見つかった。改装費の特損処理が反映されていない。このまま出せば、あとで刺されるのはこちらだ。 「今このまま出すのは無理です」 私が言うと、会議室が止まった。 「午後の打ち合わせは私が出ます。資料は三十分で直します」 その場で差分を洗い出し、代替案を三つ並べる。足りない前提を埋める順番まで口にすると、さっきまでざわついていた役員たちが黙る。こういうときだけ、私は便利で、有能だ。 「さすがですわ、真尋さん」 一条澄麗は、にこやかに首を傾げて言った。 「真尋さんって、本当に仕事一筋でいらっしゃいますよね。お子様のいらっしゃらない方でも、こうして会社を支えていらっしゃるのは素晴らしいと思いますわ。 ただ、少し張りつめすぎていて、怖いですわね」 その言葉に、くすっと笑いが落ちた。 それで勢いを得たように、澄麗が言葉を続ける。 「……少し寂しいかもしれませんわね。女性として一番輝く時期を、数字と会議に捧げてしまって」 何人かの役員が、小さく頷いた。 頬が熱くなるのを感じる。 彼女はそこで一瞬間を置き、目を細めた。 「朔弥さんも……ずっと我慢なさっていたんでしょうね。こんなに頑張る女性と一緒にいても、家庭の温かさは得られないんですもの」 視界が白く染まった。 指先が勝手に震え、コーヒーカップの中で黒い液面が大きく揺れた。 この女は、ただの嫌味じゃない。 私の人生を、努力を、全部『女として失敗した結果』に塗り替えて、朔弥の前で晒している。 かけてしまいたい、と思った。 そのきれいな顔も、やわらかい声も、全部まとめて汚してしまえばいいと、一瞬だけ本気で思った。 喉の奥で、何かが弾ける音がした。 「一条さん」 カップを持つ手が、わずかに持ち上がる。 「それ以上、口を開いたら……」 そこまで言ったところで、朔弥さんの大きな手が私の手首を掴んだ。「では、誰と結婚するというの!」 先ほどより高くなった澄麗の声が、控室まで届いた。 画面の中で、朔弥さんは答えず、宴会場の後方を見た。 同時に、控室の扉が開く。 「お時間です」 迎えに来た係員が頭を下げた。 父が立ち上がり、私へ腕を差し出す。 「行こうか」 「うん」 私は父の腕へ手を添えた。 「怖いか」 「少しだけ。でも、もう隠れたくない」 「なら、顔を上げなさい」 廊下を抜けると、宴会場の大きな扉が左右へ開いた。 何百もの視線とカメラが、一斉にこちらを向く。 お腹を締めつけない淡い色のドレスを選んだ。 左手には、二本の指輪がある。 一歩目だけ、足が重かった。 父は私を引かなかった。急かさず、私が自分で踏み出すのを待っている。 私は顔を上げ、会場へ入った。 壇上で、澄麗がこちらを見ていた。 白に近いドレスを着たまま、さっきまでの笑みを失っている。 朔弥さんが壇上を降りた。 長い通路を、まっすぐこちらへ歩いてくる。 澄麗も、役員席も、向けられたカメラも見なかった。 最後に迎えに行くと言った人の目は、最初から私だけを見ていた。 父の前で止まると、軽く頭を下げた。 「真尋さんを、お借りします」 「返すつもりはあるのか」 「ありません」 父が笑った。 「なら、大事にしてくれ」 父は私の左手に並ぶ二本の指輪を見た。 それから、自分の腕から離した手を朔弥さんへ渡す。 朔弥さんの指が、私の指へ深く絡んだ。 「待たせた」 「ずいぶん、溜めましたね」 「最後まで信じると言っただろう」 「信じていました」 少し腹が立っただけです、と続けると、彼の口元が緩んだ。 二人で壇上へ戻る。 「どうして、その人が出てくるの!」 澄麗が私たちの前へ立とうとした。係員に止められる。 声が高く跳ねた。入場した時の、よく通る落ち着いた響きはもうない。 「その人はもう妻ではないわ。離婚届は受理されたでしょう!」 朔弥さんは私の手を持ち上げた。 二本の指輪へ、会場の照明が当たる。 「届出は受理されました。ですが、提出された時、俺たち二人に離婚する意思はありませんでした。現在、記録を正す手続を進めています」 「でも、離婚を告げたのはあなたでしょう」 「あ
『一条澄麗さんではありません』 控室の画面の中で、会場の拍手が止まった。 澄麗は笑ったまま、朔弥さんを見上げている。 聞き取れなかったのだと思うまでに、数秒かかった。 『……何を、おっしゃっているの?』 朔弥さんは、絡んでいた澄麗の手を自分の腕から外した。 『俺は、あなたとは結婚しません』 『では、どうして私をここへ呼んだの』 澄麗の声が高くなる。 『君が何をしたのか、ここにいる全員に見てもらうためです』 朔弥さんが壇上の画面へ合図した。 最初に映ったのは、私が渡した念書だった。 仕事を辞めること。 私から離婚を切り出すこと。 城戸さんとの関係を説明し、御門の印象を傷つけないこと。 その見返りとして、父の事務所と城戸ホテルズへの照会を止める。 最後に、一条澄麗の署名が映った。 『真尋さんも納得なさったことですわ』 澄麗は画面から顔を背け、招待客へ訴えた。 『ご家族のことを心配されていたから、私が間に入っただけです。無理に署名させたわけではありません』 『父親の仕事を人質にして、妻に退職と離婚を選ばせることの、どこが助けなんだ』 澄麗の唇が止まる。 雅臣が席を立った。 『娘が個人で交わした書面だ。一条家の意向ではない』 『では、なぜ澄麗さんが、一条側の照会を止めると約束できたんですか』 朔弥さんが聞くと、雅臣は答えなかった。 画面が切り替わる。 左腕を固定した榊原さんが、正面を向いていた。 『一条澄麗さんの依頼で、高瀬真尋さんの通院先と、御門さんご夫妻の生活を調べました』 クリニックの出入口。 郊外施設で、城戸さんが私を支えた瞬間。 私たちの寝室の窓へ向けられたカメラ。 私的な写真そのものは映らない。代わりに、撮影を依頼した文面と支払いの記録が示された。 『城戸さんが高瀬さんを助けた場面は、前後を外して提出しました。不倫関係に見える写真が必要だと言われたからです』 『その女は、お金のためなら何でもする人よ!』 澄麗が叫んだ。 招待客の席から、城戸さんが立ち上がる。 『写真の前に、高瀬さんは足を滑らせています。私は支えただけです。それ以前にも、それ以後にも、高瀬さんと不貞関係にあった事実はありません』 澄麗が何か言い返す前に、榊原さんの映像が続
婚約披露パーティーの夜、私は父と一緒に、御門ホテルの大宴会場に隣接する控室で中継画面を見ていた。 会場には、取引先、金融機関、会社の役員、親族、報道関係者が集まっている。 招待状に書かれた名目は、御門朔弥の婚約と今後の経営方針の発表。相手の名前は、どこにも書かれていなかった。 それでも、誰を紹介する席なのか、招待客の多くは知っているようだった。 画面の端で、宴会場の扉が開いた。 澄麗が、雅臣に手を添えて入ってくる。 白に近い銀色のドレスだった。胸元にも髪にも宝石が光り、係員が引いた椅子には、朔弥さんの席と並べて花が飾られている。 息を呑むほど、きれいだった。 けれど、その笑顔と視線は、ほんの少しだけ噛み合っていなかった。 招待客へ微笑みかけているのに、目は誰も見ていない。隣の空席に朔弥さんが座り、自分へ手を差し出す光景が、彼女にだけはもう見えているようだった。 美しい曲に、一音だけ違う音が混じっている。そんな不協和音に気づいたようで、背筋が冷えた。 会場が小さくざわめいた。 感嘆の吐息だけではない。何人かが隣の客と顔を見合わせ、声を潜めている。 冴子が立ち上がり、澄麗を迎えた。 『よく似合っているわ』 『ありがとうございます。今日をずっと待っていましたの』 二人の声まで、控室のスピーカーへ届いた。 私は左手へ目を落とした。 二本の指輪は、外していない。 「大丈夫か」 隣の父が聞いた。 「うん」 朔弥さんが何をするのか、私は知っている。 澄麗を妻にしないことも、私を迎えに来ることも聞いた。 ただ、壇上でどんな言葉を使うのかは、教えてもらえなかった。 会場では、カメラを向けられた澄麗が笑っていた。 『皆様を長くお待たせしてしまいました』 まだ発表前なのに、婚約者として答えている。 『御門と一条が、これからも皆様のお役に立てますよう、私も朔弥さんをお支えしてまいります』 雅臣も、娘の隣で満足そうに頷いた。 『過去には、身の程をわきまえない者が間へ入り、余計な混乱もありましたが』 雅臣は、控えめに笑ってみせた。 『それも本日で終わりです。両家にとって、今日が新しい出発になるでしょう』 会場のざわめきが、今度ははっきりと戸惑いに変わった。 身の程をわきま
翌朝、新居の居間で、私は離婚届についての書類に署名した。 私たちに離婚する意思がないまま提出された届出について、無効の確認を求めるためのものだった。 書き終えた書類を渡すと、朔弥さんは私の名前を見た。 「今度は、迷わなかったんだな」 「もう、迷うわけありません」 「……そうか」 短い返事なのに、声が少し掠れていた。 朔弥さんは書類を置き、私の左手を取った。二本の指輪ごと、指先へ口づけられる。 「嬉しそうですね」 「嬉しいに決まっている。君が、俺を選んだんだから」 私はテーブルの脇に置いていた封筒を手に取った。 昨夜、見せたいものがあると言ったまま、寝室には持ち込まなかったものだ。 「これも、見てください」 中から念書を出し、彼の前へ置く。 朔弥さんは、数行読んだところで顔色を変えた。 私が仕事を辞めること。私から離婚を切り出すこと。城戸さんとの関係を説明すること。その見返りに、父の事務所と城戸ホテルズへの照会を止めると書かれている。 「あの時か」 朔弥さんの指が、離婚を切り出すという一文で止まった。 「君が社長室で泣いた時。これを抱えていたのか」 「……はい」 「俺は、何も知らずに」 最後にある澄麗の署名を見た途端、彼が立ち上がった。 椅子が床を擦る。念書が両手の中で歪んだ。 「破っちゃだめですよ。証拠ですから」 慌てて紙の端を押さえると、朔弥さんの指が止まった。 破れる寸前だった念書をテーブルへ戻しても、澄麗の署名から目を離さない。 「こんなことをして、しかも君を殺そうとして」 抑えていた声が荒れた。 「絶対に許さない」 次の瞬間、抱きしめられた。 私は彼の背へ腕を回した。 「……あの時も、そう言ってほしかったです」 私を抱く腕が、痛いほど強くなる。 「すまない、真尋」 「でも、今はしてくれました」 「もう一人で泣かせない」 朔弥さんの唇が、やさしく額に触れた。 守られている。そのことを、今はもう疑わずに信じられる。 テーブルの上で、朔弥さんの端末が震えた。 表示された名前を見て、抱いていた腕が止まる。 「あの女か」 彼は私を離さないまま通話を受けた。 『来週の婚約披露について、確認したくてご連絡しましたの』 「婚約披露だと? ま
求婚を受けた夜、新居の寝室で、私は寝台に横たわったまま、朔弥さんの手を握り返した。 今夜は、私ももう止まりたくなかった。 内腿へ触れた唇が、さらに近づく。 反射的に閉じかけた脚を、掌で止められた。 「真尋」 名前を呼ばれ、顔を上げる。 朔弥さんは私の左手を握ったまま、顔を上げた。 「俺を見ていろ」 そのまま目を逸らすことを許されなかった。 いちばん隠したいところへ、唇が触れる。 触れられるたび、握った手へ力が入った。 「あっ……朔弥さん」 声を抑えようと唇を噛んだ。それでも短い声が漏れ、繋いだ手を引かれる。 「聞かせろ」 「恥ずかしいです」 「そんなに、聞かないで……」 「何か月、君の声を我慢したと思っている」 答える余裕を奪うように、また求められた。 慎重な触れ方なのに、容赦がない。私が身をよじるたび、逃がさないとでもいうように指が絡む。 名前を呼ぶと、唇が離れた。 物足りなさに身体を動かした私を見て、朔弥さんの目が細くなる。 「もっと?」 聞き方が意地悪だ。 「わかっているくせに」 「君の口から聞きたい」 求婚の返事も、二度言わされた。 この人は欲しい言葉を、私が差し出すまで待つつもりらしい。 「……もっと、触ってください」 言い終える前に、身体の奥へ熱が走った。 枕へ沈みかけた顔を、頬へ触れた手に戻される。 「まだ、見ていろ」 「見ています……ちゃんと」 指を絡めたまま、何度も波を重ねられた。 「ああっ……朔弥さん、もう……」 最後まで言えなかった。顔を寄せられ、口づけで声を塞がれる。 長いキスのあと、朔弥さんは私の隣へ身体を横たえた。 背と膝の下へ枕を入れ、腹部へ重みがかからないよう身体の位置を整える。 「苦しくないか」 「大丈夫です」 「痛みは」 「ありません」 それ以上の確認はなかった。 向かい合ったまま脚を絡め取られ、また左手を握られる。 「今度は、離すな」 「離していたのは、朔弥さんです」 「だから、もう二度と離さない」 唇を重ねたまま、ゆっくりと身体が繋がった。 長く離れていた人の熱が内側へ満ち、思わず彼の手を強く握る。 朔弥さんは動かなかった。 苦しさがないとわかるまで、額を寄せ、私の目を見
求婚から戻った夜、新居の玄関で二人きりになっても、朔弥さんは私の左手を離さなかった。 車の中でもずっと繋いでいた手だ。 二本の指輪へ目を落とし、指のあいだへ自分の指を深く絡めている。 「もう着きましたよ」 「わかっている」 「では、離してください」 「嫌だ」 子どものような返事だった。 笑うと、握った手を引かれ、そのまま胸へ抱き込まれる。 「車の中から、ずっと我慢していた」 「手は離さなかったでしょう」 「手だけで足りると思うか」 玄関の扉を背にしたまま、顎を持ち上げられた。 唇が触れる寸前で止まり、朔弥さんは私を見つめる。 「今夜は、もう我慢しなくていいそうだ」 植物園で囁かれた言葉を、もう一度聞かされた。 「先生に、何を聞いたんですか」 「君を抱いていいか」 あまりに真っ直ぐ答えられ、返す言葉が出てこない。 「あの電話で?」 「ああ」 「今日の診察結果もわからないうちから?」 「許可が出たら、今夜抱くと決めていた」 それで、診察の前からあんな顔をしていたのか。 「先生、驚いたでしょう」 「途中から呆れていた」 「何を聞いたんです?」 「必要なことは全部だ」 その全部を尋ねると、また病院の説明が始まりそうだった。 私が黙っていると、頬を包んだ親指が唇をなぞる。 「怖じ気づいたか」 「まさか」 親指の先へ口づけた。 「待っていたのは、私も同じです」 次の瞬間には、唇を塞がれていた。 背中へ回った腕が私を引き寄せる。お腹を圧迫しないよう距離を残しているのに、唇だけは少しも遠慮しない。 舌先が触れ、思わず彼の服を掴んだ。 応えると、口づけが深くなる。 息を継ごうと顔を逸らしても、頬を包む手に導かれ、また唇が重なった。 背筋を震えが走り、腰の奥が甘く疼く。 もっと近づきたいのに、彼は私の身体を気遣って、それ以上は引き寄せない。 そのもどかしさに、今度は私から唇を追った。 ようやく離れたときには、玄関に立っていることも忘れ、彼の腕に身体を預けていた。 「朔弥さん」 「寝室まで待てと言うなら、もう名前を呼ぶな」 「待てるんですか」 問い返すと、腰を抱く腕に力がこもった。 「試すな」 抱き上げられそうになり、慌てて彼の肩を押す。 「
ダイニングルームに入った瞬間、足が止まった。 義母の冴子、その隣には祖母の千鶴、向かいには朔弥さん。そして、夜の席にいることがあまりに自然すぎる一条澄麗。 胸の奥で脈がひとつ大きく跳ねた。嫌な予感だけが、遅れてはっきり輪郭を持つ。 澄麗は淡いグレージュのセットアップに細いパールを合わせて、まるで最初からこの家の夜の食卓に馴染むために育ってきたみたいな顔をしている。 「こんばんは、真尋さん」 澄麗がやわらかく微笑んだ。 「ごめんなさい、勝手にお邪魔してしまって。御門家とは家族同然のお付き合いですので、つい昔の癖で入ってしまいましたの」 私は一拍遅れて会釈した。 もう
「真尋。今はやめろ」 掴まれた手首が痛い。 腹の奥が焼けて、呼吸が乱れた。 叫びたかった。この場で全部、ぶちまけたかった。 彼の顔を見た。 そこにあったのは、私への心配ではなく、場を乱された苛立ちだった。 胸の奥を、鈍いものが刺した。 そのとき、澄麗の声が届いた。 「ごめんなさい。私、何か失礼でしたか?」 澄麗は困ったように目を伏せる。 完璧だった。責めたほうが浅く見える形に、もう整っていた。 「……いいえ。お気遣い、ありがとうございます」 噛みしめた唇が切れ、舌の裏に鉄の味がした。 朔弥さんの手が離れる。 そこだけが、熱を持って痛んだ。
朔也さんは一晩中帰ってこなかった。 私が送ったメッセージも、既読のまま返事はなかった。 翌日、会社の空気は昨日より少しだけ悪かった。 数字が悪いわけでも、会議が荒れているわけでもない。ただ、人の視線だけが妙に湿っている。そういう日の会社は面倒だ。問題が表に出る前に、誰かが勝手に物語を作っている。 エレベーターを降りた瞬間、すれ違った総務の二人が、私を見るでもなく声を落とした。 「やっぱり、社長とは昔からそういう感じだったんだ」 「二人、本当にお似合いだよね」 「でも今さら入るんだ。しかもブランド戦略って」 一条澄麗。 帰国した、若くて、家柄もよくて、米国の名門
――子どもは、まだなの。 御門家の朝食卓で、その問いは天気の話みたいな顔で落ちてきた。 問いというより、確認だ。いつまで待たせるつもりなのか、と。銀のスプーンが白い皿に触れる小さな音のほうが、よほどやさしい。 「仕事が忙しいのはわかるけれど、女には期限がありますからね」 義母の冴子は穏やかに微笑んだ。 露骨に責める人より、こういう人のほうが厄介だ。やさしい声のまま、逃げ場のないところだけを刺してくる。 隣では、義祖母の千鶴が新聞を畳み、こちらも見ずに口を開いた。 「会社を支えたことは評価しているわ。でもね、真尋さん。妻の仕事は、それだけじゃないの」 喉の奥が細くな







